Image by Siggy Nowak from Pixabay
年度も今日で終了です。明日(4月1日)は母の命日です。
母はコロナではないと判定はされたが、実態はコロナとそっくりの病状で推移した。
4月1日の夕方に母と面会出来て、割と元気そうだったので、安心をしていた。
しかし、夜中に容態急変危篤の連絡を兄から受けて、病院に駆け付けた。
私の方が、兄より先に着いた。
院長先生が母の心臓マッサージを行っていたが、何十分もしていたのだろう。汗だくで。
「変わってくれ」と言われて、院長先生に変わって、私が心臓マッサージをした。
(今から思えば、医師である兄と勘違いされていた可能性が高い。院長先生が自ら対応されていたのも、兄が医師だったからかもしれない。)
何十分、何時間、心臓マッサージをしていたのだろう。
段々、母がかわいそうに思えてきて、「お母さん、ありがとう」と大声で伝えて、心臓マッサージを断念した。1%でも救命の可能性があれば、私は心臓マッサージを続けていただろう。
院長先生にも「可能性は無い」ことを教えられ、心臓マッサージを止めた。
私が心臓マッサージを止めた時間が、母の死亡時間になった。
私が心臓マッサージを止めて、母の手を握っていると、体温が急激に失われていくのを感じた。
かくして、母の死は、私の大きなトラウマになった。
母とは仲がずっと良かったので、何時も母の愚痴を聞いたり、私の愚痴を聞いてもらったり、電話でコミュニケーションをずっと取っていた。暫くは特に寂しさがあった。
思えば、優しい母であった。
私は、中学のクラブ活動で、先輩にいじめられていたが、私が上級生になると、その分後輩にも同様の行動をした。
母はその姿を見て、初めて私を強く叱責した。その日以降、後輩に対する行動も改めた。その後、後輩の中で人気が上がった。叱られたのはこの時だけじゃないだろうか。後はあんまり叱られた記憶が無い。
もともと勉強はできたし、自分でしていたので、勉強について母が口を出したことも無い。
もっと幼いころは、小児喘息を患っている私に付き添って、夜なべで介抱してくれた。
呼吸の苦しさから身近に死を感じながらも、背中をさすってくれる母のその温かみは一生忘れない。
特に、私は母から大事にされていたし、父からも大事にされたので、私の価値観の一番目は、「愛」になった。
私は元来人と付き合うのは得意ではない。その分、私の周辺にいる僅かな人だけは、幸せになって欲しいと願っている。これからも、そういう行動をとっていきたい。
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