鍋でごまかした夜に思う。料理の腕を問われた日、僕は何を守ろうとしたのか
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◆ はじめに:不意に訪れた「料理の実力テスト」
人には、それぞれ自分の「弱点」と呼べる領域がある。
僕にとってそのひとつが——料理だ。
もちろん、毎日飢えずに生きていける程度の自炊ならできる。
炒める、煮る、焼く、温める。
しかし、そこに「味を作る」という意識が強く問われた瞬間、
僕はいつだってどこかで肩に力が入り、
そして同時に自信のなさが顔を出す。
そんな僕に今日、不意のタイミングで
「料理の腕を問われる場面」
が訪れた。
突然の来客。
家で食事をする流れ。
「せっかくだから、なんか作ってよ」
と期待のこもった声。
心臓が一拍だけ遅れて動いた気がした。
しかし僕は、咄嗟にこう答えていた。
「じゃあ、鍋にしようか。」
なぜ鍋なのか?
理由は単純で、そして深い意味もある。
鍋とは、正直者であり、そして便利な嘘つきでもある。
食材さえ良ければある程度は整い、
調味料を足せば “それらしい味” にまとまってくれる。
僕のような“料理未熟者”にとっては、
まるで優しい盾のような存在なのだ。
その日、僕は鍋でごまかした。
しかし、そこには小さな気づきが潜んでいた。
◆ なぜ、僕は鍋を選んだのか?
鍋は料理上級者が作ってもおいしいが、
料理が苦手な人間が作っても、そこそこ「勝ち筋」がある。
さらに便利なのは、
“一緒に作る感” を演出できること。
具材を切る時間さえ共有できれば、
料理の上手さはそこまで大きな要素ではない。
「どれ入れる?」「これ好き?」と質問を返せば、
相手も参加者になる。
つまり鍋とは、
僕にかかったプレッシャーを薄める魔法のような器
だったのだ。
そのときの僕は、
料理の腕を試されているという意識よりもむしろ、
自分が何かを「失敗しない」ための手段を
本能的に選び取っていたのだと思う。
◆ 鍋の中で起きた“小さなドラマ”
ぐつぐつと煮えていく鍋。
具材が踊るように動き、湯気が立ち上る。
部屋にやさしい出汁の香りが広がっていく。
相手が「おいしそう」と言った瞬間、
僕の胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
そこには、料理の腕前とは別次元の、
「一緒に食卓を囲む心地よさ」
があった。
僕が作った鍋は、
きっと料理上級者が作るそれとは違った。
味のバランスも、火加減も、洗練とは遠い。
それでも相手が
「これ、いいね」
と笑ったとき、
僕は救われた気がした。
料理の自信がなくても、
自分の不器用さを隠しつつ差し出すものが、
誰かを喜ばせることがあるのだと。
◆ 鍋で“ごまかす”ことは、本当に悪いことなのか?
今日の出来事を振り返りながら思う。
果たして、これは“ごまかし”だったのか?
確かに僕は、本来試されるべき料理の腕を
鍋という防具で覆い隠した。
しかし——。
もし「ごまかす」という行為が
誰かと過ごす時間をより柔らかいものに変え、
場の空気を平和に整え、
自分の苦手を無理に誇張せず、
それでも楽しんでもらおうとした選択だったなら。
それは単なる逃げではなく、
自分なりの誠実さ
だったのかもしれない。
人は、すべてを完璧にこなせるわけではない。
足りない部分があれば、
そこを補う方法を選ぶのは自然なことだ。
今日、僕が“ごまかした”のは事実だが、
同時に僕は
「できる範囲で誰かを喜ばせようとした」
のも事実だ。
その気持ちだけは、鍋の湯気のように
ゆっくりと心に残った。
◆ そして気づいたこと:料理は「腕前」だけじゃない
鍋を囲みながら会話が弾んだ。
食べ終わったあとも、余韻のように温かさが続いた。
そのとき気づいた。
料理とは、
上手いか下手かだけで測るものじゃない。
食卓にどんな空気が流れ、
どれだけ相手を思って作ったか。
そこに価値が宿るのだと。
僕は今日、鍋でごまかしたけれど、
心までごまかしたわけじゃない。
むしろ、いつになく素直に
「失敗したくない」という自分の弱さを受け入れ、
相手と心地よい時間を作りたいと思った。
これは、僕にとって
ちいさな成長だったのかもしれない。
◆ まとめ:次はもう少しだけ冒険してみよう
今日の鍋は、僕の“逃げ”だったかもしれないし、
“優しい選択”だったのかもしれない。
でも確かなのは、
その時間がとても心地よかったということ。
そして次に同じ場面が来たら、
鍋ではなく、
ほんの少しだけ自分の腕で勝負してみてもいい。
失敗しても笑い話にできるような関係なら、
料理という挑戦も悪くない。
そんなふうに思えた一日だった。
